広東は原石の市場が主でして、これはビルマから輸入された石を取引するわけですが、一つの商売がまとまるまでには、数回の折衝を重ねるのが普通です。何しろ原石の取引は非常にむずかしいもので、何年もの経験と、決断とを必要とするものなのです。
原石は茶褐色の風化した外皮でおおわれているのですからその内部の緑色の度合いなどはまったくわからないと言っていいほどなのです。緑の最も濃い箇所へ五分幅ほどのノミで削った跡のように、一寸ほどの長さに磨いておいて、いかにも内部の生地が美しい緑色であるかのように見せかけるのですが、その方法があまりにも巧妙であるためにまんまとその術にひっかかる例は決して少なくありません。
製品としては彫刻のない腕輪その他が並んでいました。上海あたりの業者は、個人で原石を買い入れることはほとんど無く「公司」と称して共同出資で行いますが、一切の責任は最初の一人にまかせて、絶対の信用のうちにすべてが運ばれることは全く感心の他ありません。なにしろ原石の判定の難しいことは、前にもお話しした通りですから、ときには大変な大儲けをする反面に、十分の一にもならなかったというような例は、ざらにあります。
大損を招く危険の多いものですから北京の業者たちは、蒲鉾を切ったような形の原石材料を買い入れるのが普通であったたようです。
以上は終戦までの実情なのですが、おそらく現在では大きな変化があることです。
以上
当時のミャンマー、中国の時代背景を説明しますと
1885年フランスがインドシナ半島のベトナム、ラオス、カンボジアを植民地とし、翌年にはイギリスがビルマを植民地にしました。
当時海側から雲南省に行くルートはタイからメコン川を遡上するルート、ベトナムの 紅河を遡上するルート、広州から西江を遡上し百色を経ていく3ルートが主なものでした。
したがって翡翠もビルマから雲南省に入り船によって広州に運ばれるのが主でした。
しかし中国の政情は清末期から中華民国になりましたが不安定であり翡翠運搬もたびたび中断を余儀なくされました。
また、翡翠原石の購入には博打の要素があることは確かですが現在は昔ほど一か八かの博打の要素はなくなってきています。
このビルマから雲南省を通って広州、上海、北京にいくルートについてはまたあらためてご報告いたします。
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